「Kent Beckの思想と学びの道筋」SHIFT Agile FESイベントレポート

2025/07/11

2025年5月17日、SHIFTは「People-Centric Agile: Crafting Quality」をコンセプトに据えるハイブリッドイベント「SHIFT Agile FES」を開催しました。

同イベントでは、アジャイル開発を積極的にとり入れ、品質担保に活かしてきたSHIFTならではの視点から、人間中心のアジャイルのあり方を参加者のみなさんと考える場を提供。

本記事では、エクストリーム・プログラミング(XP)の父であり、テスト駆動開発の父でもあるKent Beck氏をとりあげ、同氏の著書を多く翻訳してきた 吉羽 龍太郎氏とSHIFT アジャイル推進部 部長 秋葉 啓充が「Kent Beckの思想と学びの道筋」をテーマに語り合ったセッションをお届けします。

  • 株式会社アトラクタ 取締役CTO 吉羽 龍太郎氏

    アジャイル開発、DevOps、クラウドコンピューティング、組織開発を中心としたコンサルティングやトレーニングが専門。野村総合研究所、Amazon Web Servicesなどを経て現職。Scrum Alliance 認定スクラムトレーナー(CST) / 認定チームコーチ(CTC)Microsoft MVP for Azure。著書に『SCRUM BOOT CAMP THE BOOK』(翔泳社)など、訳書に『ダイナミックリチーミング』『Tidy First?』(オライリー・ジャパン)、『チームトポロジー』(日本能率協会マネジメントセンター)など多数。

  • SHIFT アジャイル推進部 部長 秋葉 啓充

    日本IBMと日本製鉄の合弁会社(現NSSOL)に入社し、エンジニアとしてキャリアスタート。システム企画コンサルや全社生産計画システム開発のPMを歴任。DX・アジャイル開発を経験すべく、友人のベンチャー企業で2年ほど勤めた後、2020年、SHIFTに入社。コンサル、スクラムマスター、インフラアーキテクト、自動化PM、エンジニアリングマネージャーを経験し、2025年3月から現職。

目次

Kent Beckが紡いだ思想の系譜を辿る

吉羽氏:Kent Beckはエクストリーム・プログラミング(XP)の父であり、テスト駆動開発の父でもある有名人です。まず、彼のキャリアをかいつまんでお話しします。

Kent Beckは1961年サンノゼ生まれで、オレゴン大学で情報系の学部に進みました。

同時期にクリストファー・アレグザンダーの『時を超えた建設の道』を読み、これがいわゆる「パタン・ランゲージ」との最初の出会いになりました。

大学卒業後はTektronixという会社に入り、プログラマーとしてSmalltalkを愛用していました。

そこでウォード・カニンガムという師匠的存在に出会い、1987年に『オブジェクト指向プログラムのためのパターンランゲージの使用』という論文を共同執筆しました。

その後Appleに転職し、Smalltalkの単体試験スイートであるSUnitを開発します。

XPが誕生したきっかけは、クライスラーのC3プロジェクトです。

このプロジェクトで、3週間のイテレーション(繰り返し)、ユーザーストーリー、テスト、ペアプログラミングなど、当時としては画期的なやり方をとり入れました。

開発手法を聞かれたときに説明しやすいよう、「エクストリーム」という名前をつけたそうです。

話をKent Beckの経歴に戻しますね。1997年にJUnitをつくり、1999年に『 XPエクストリーム・プログラミング入門 』を執筆しました。

2001年にはアジャイルソフトウェア開発宣言(アジャイルマニフェスト)の作成に参加し、2002年に『テスト駆動開発』、2004年に前出の入門書の第2版を出版しました。

2006年ごろには「説明責任と透明性が重要だ」といったほか、2010年頃は10以上のスタートアップに関わっていました。

2011年にFacebookに入社し、スケールの複雑性や意思決定の可逆性の重要を学んだようです。

Facebook時代の後半からは、3Xモデル(Explore, Expand, Extract)を提唱しました。

これはプロダクト開発には探索フェーズ、拡大フェーズ、収穫フェーズがありプラクティスがそれぞれ異なるという考え方です。

2022年には「Help Geeks Feel Safe in the World」(ギークが世界で安全に感じられるよう助けること)という自身のミッションを明確にし、2023年には「ソフトウェア設計は人間関係のエクササイズだ」と述べ、『Tidy First?』を出版しました。

現在は『Tidy Together?』を執筆中で、その次はチーム外の人々を巻き込んだ仕事の進め方について取り組む予定だそうです。

アジャイルの源流に流れる“建築の哲学”

秋葉:ご説明ありがとうございます。Kent Beckの活動を、みなさんにもご理解いただけたかと思います。吉羽さんがはじめて読んだKent Beckの著書は何ですか?

吉羽氏:『XPエクストリーム・プログラミング入門』の第一版だったと思います。当時は、ウォーターフォール開発に限界を感じて別のやり方を模索し、XPに出会いました。

私がはじめて実践したアジャイル開発がXPでした。当時は尖ったやり方だと感じ、うまくいくか半信半疑でしたが、実践してみると非常によく機能したので、アジャイルに傾倒していきました。

秋葉:XPは教条的、あるいは厳しいという印象があります。

例えばリポジトリのブランチ運用に関しても、個人のブランチ単位での話が多く、チーム全体で実践するにはむずかしい側面もあるのではないでしょうか。

吉羽氏:そうかもしれませんね。当時は私がリーダーだったので、「これをやる」と宣言し、チームメンバーに実践してもらいました。

秋葉:そのチームにいたかったですね(笑)。吉羽さんとの対談を前に、Kent Beckについてもっと勉強しようと思い、過去の書籍やインタビューを読み解きました。

加えて、最初に紹介のあった『時を超えた建設の道』を、改めて購入して読み直してみました。

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著者のクリストファー・アレグザンダーは建築と都市計画の思想家で、ソフトウェア業界では有名ですが、建築学においては主流ではないようです。

元々は数学の修士号を取得し、その後建築学で博士号を取得して建築家になりました。

アレグザンダーによれば、都市計画者の人工都市は重なりのないツリー構造であるのに対し、自然都市はセミラティス構造(要素が交差し重なり合う構造)です。

このセミラティスの概念を具体的に再現しようとしたのが、その後のクリストファー・アレグザンダーの活動です。

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Kent Beckはこのセミラティスのような構造を実現したくて、XPやテスト駆動開発に取り組んでいるのではないかと私は考えたんですが。

吉羽氏:そうかもしれませんね。

Kent Beckほど業績の多い人になると、私たちはいろいろロジックを積み重ねて「多分こう考えたに違いない」と推測しがちですが、大学時代に立ち読みした本を「絶対に仕事のどこかで使ってやろう」とまでは思っていなかったのではないかと思います。

秋葉:『XPエクストリーム・プログラミング入門 第2版』でも『Tidy First?』でも、アレグザンダーの名前は出てくるので、ずっと心のなかに残っているのかもしれませんね。

製造現場からソフトウェア開発へ――異分野が交差する知の回路

秋葉:Kent Beckにとってのアレグザンダーのように、吉羽さんの人生を変えた一冊を教えていただけますか?私の場合は『服従の心理』というスタンレー・ミルグラムの本で、人は強制されなくても権威に従いやすいという実験について書かれたものです。そこから「自分の頭で考えることが大事だ」と学びました。

吉羽氏:私は『トヨタ生産方式』という本です。実はKent BeckもXP本の第二版で「トヨタ生産方式」という章があって、個人的にうれしかったんです。

私はWeb開発プロジェクトで何度も炎上を経験し、仕事でおつきあいのあった方から「工場見学に行くといいよ」と誘われ、あるPCの生産現場などを見学しました。

PC工場はとても綺麗で、各工程で品質チェックがなされていました。例えば振動試験では市販のマッサージ機を台にとりつけて、PCを揺らしてテストしていたんです。いろんな方法で品質をつくりこんで、1日に何個生産できるか、いま、生産現場がどうなっているかが可視化されていて、「なんでソフトウェアはこうできないの?」と。

この製造業でのやり方についてくわしく調べはじめて『トヨタ生産方式』をみつけ、ソフトウェアの領域で近いやり方を探した結果、Kent Beckにたどり着いたんです。

秋葉:そこがつながったんですね。数学を研究していたクリストファー・アレグザンダーが建築を学び、それがKent Beckに影響を与えてXPやテスト駆動開発が生まれました。それと同様に、吉羽さんもトヨタ生産方式という工場の知識をソフトウェア開発の改善に役立てたわけですね。

このように領域を超えた交差点にこそ、新しい知が生まれているのではないでしょうか。知識体系と知識体系との組み合わせで新たな知識や価値を生むことができるというのは、当たり前のことかもしれませんが、重要な視点だと思います。

吉羽さんへの深堀り質問

秋葉:ここからは、私がさらに吉羽さんにお聞きしたいことを深掘りしていきます。

まず、吉羽さんは多くの技術書の翻訳をされていますが、翻訳する本を選ぶ基準はありますか?『プロダクトマネージャーのしごと』、『チームトポロジー』、『ダイナミックリチーミング』など、ほかではあまりみられない本を翻訳されていて、しかもシリーズのように読めるものが多いと感じました。

吉羽氏:翻訳の流れとしては、2つのパターンがあります。1つは出版社から提案いただくもので、読んでみて自分の思想と一致するかどうかで選んでいます。だからつづいているようにみえるわけです。

もう1つは、こちらから提案するパターンです。以前出た本の反応がよかったけれど、まだ語れていない部分がある場合、その部分を本として出したいと思って出版社に提案するような形です。

秋葉:思想に合うものを選ばれているというのは納得できます。シリーズのように読めるので、『Chef実践入門』からもう一度読み直してみたいと思いました。

次に、コロナ禍の話です。以前、fukabori.fmで吉羽さんが「制約があった方が工夫やアイデアが生まれるから、コロナ禍はうまく利用すればいい」とおっしゃっていて、すばらしいと思いました。私自身も対面の方が楽だと思いがちでしたが、その制約のなかでリモートファシリテーションを身につけられました。吉羽さん自身がコロナ禍で気づいてやりはじめたことや習慣化したことはありますか?

吉羽氏:コロナ禍ではみんなが集まれない分、会話する時間をつくりました。その結果、モブプログラミングをやる頻度が増えて、プロダクトの品質が上がりました。制約から新しい手をとりれ、効果を実感する。プラクティスが新しく生まれていくのを目撃しました。

秋葉:状況に応じてアイデアを出していくこと自体が大事なんですね。

吉羽氏:そうです。Kent Beckも「自分たちのプロセスは自分たちのものにしろ」といっています。マニュアルや本に書いてあることをそのままやって「うまくいかない」で終わるのではなく、自分たちでプロセスを考えるというスタンスについては、Kent Beckは変わっていないと思います。

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「進捗率95%」の罠を超えて

秋葉:吉羽さんがつねづねいろんなところで話されていることですが、改めて「進捗レポートで問題ありません」というのが、なぜダメなのか改めて教えていただけますか?

吉羽氏:端的にいうと「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」ということです。進捗率95%といわれるとすごそうに聞こえますが、残りの5%に95%と同等の時間がかかることがあります。

例えば、アジャイルソフトウェア開発宣言には「動くソフトウェアこそが進捗のもっとも重要な尺度です」とあります。お客様との信頼関係は、進捗率95%のレポートではなく、動くプロダクトを目の前に提示しつづけて、改善を繰り返すことで醸成されます。これは、開発の基本中の基本です。

秋葉:なるほど、ありがとうございます。ところでKent Beckの『Tidy First?』は16年ぶりのコードに関する本ですが、何か新しさや変わったところを感じられましたか?

吉羽:実はあまり感じていないのですが、Kent Beckが優しくなったという印象はあります。昔はもっと尖っていましたが、ステークホルダーやチームの外側も大事にしなければいけないし、プロダクトとして成果を出さなければいけない、大規模組織では違う論理も働くなど、さまざまな価値観を尊重するようになっていますね。

秋葉:『Tidy First?』の「Tidy」は、こんまり®メソッドに影響を受けているという話もありますね。

吉羽氏:そうです。彼は自分のSubstackにそう書いています。

秋葉:それも別の領域の知識体系を活かしたということですね。

誰のためにつくるのか

秋葉:最後に、AIについて。Kent Beckはブログで「ChatGPTが出てきて、私のスキルの90%の価値は0ドルまでに成り下がってしまった」と書いていました。最初は落胆したけれど、これを機会に残りの10%を新たな方法で活用しようと考えるようになったそうです。これについてどう思われますか?

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吉羽氏:これをみると、Kent Beckも私たちと変わらないなと思います。私も開発していると、AIがいままでと比べ物にならない速度で物をつくってくれるようになったのを感じます。

ITコンサルが倒産しはじめたというニュースもあり、自分の仕事がいつまであるのかと危機感を覚えますね。私もITコンサルやアジャイルコーチがいらなくなるのではないかと思うことがありますが、Kent Beckも似たようなことを思っているのだと安心しました。

秋葉:Kent Beckのスキルの90%が0ドルになったのなら、私の資産はいくら残っているのだろうと不安になってしまいますね(笑)。

吉羽氏:これは大げさな表現だと思いますが、20:80の法則で考えると、スキルの8割の価値がなくなっても、残りで稼げるからいいのではないかと考えているのかもしれません。

人手が必要なところは、AIに置き換えられることはないと思います。例えば、ほかの分野の知識を役立てたり組み合わせたりするようなことはAIにはできません。こうした発想は何物にも代えがたいものがありますよね。

秋葉:Kent Beckは、アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』について、「本書を用いれば、家族とともに自分の家を設計したり、隣人とともに自分たちの町や近隣を改良したりすることができる」といっています。

建築家が家や建物をつくる際には、使う人、生活する人のためにつくるという点を重視していて、このあたりもKent Beckが感動した部分なのではないでしょうか。

吉羽氏:そうですね。XPにはオンサイト顧客というプラクティスがあって、そこではプロダクトを実際に使う人をチームのなかに入れて開発します。使う人への配慮、視点を大切にしているんですね。

秋葉:そうですね。そこはKent Beckの変わらない部分であり、重要な視点ですよね(Kent Beckはアジャイル宣言のなかに「対話的(conversational)」を入れたかったというエピソードからもダイアログを重視していたことがわかります)。今日は本当に楽しいトークセッションをありがとうございました。

(※本記事の内容および対象者の所属は、イベント開催当時のものです)