Kent BeckとAlan Cooper、ふたりの巨匠のすれ違いから学ぶ。AI時代のアジャイルで重要なこと【Agile Japan 登壇レポート】
2025年11月13日から14日にかけて、国内最大級のアジャイル関連カンファレンス・コミュニティ Agile Japanが開催されました。2025年のテーマは、「Reboot Japan」です。
Gold SponsorのSHIFTからは、アジャイル推進部 部長 秋葉 啓充が「巨匠たちのすれ違いから学ぶ、AI時代のアジャイルで重要なこと」というセッションで登壇しました。
秋葉は、自身がエポックメイキングと捉えるいまから20年前の論争を振り返りました。
アジャイルの「神様」Kent Beck氏と、「ペルソナ」の提唱者Alan Cooper氏による対立的な論争はAI時代にどうとらえなおすことができるのでしょうか。
本記事では秋葉の登壇内容から、AIに流されることなく、真に価値あるプロダクトを生み出すために、いまこそ日本のアジャイルに不可欠な「ユーザー中心設計」の視点も探ります。
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アジャイル推進部 部長 秋葉 啓充
日本IBMと日本製鉄の合弁会社(現NSSOL)に入社し、エンジニアとしてキャリアスタート。システム企画コンサルや全社生産計画システム開発のPMを歴任。DX・アジャイル開発を経験すべく、友人のベンチャー企業で2年ほど勤めた後、2020年、SHIFTに入社。コンサル、スクラムマスター、インフラアーキテクト、自動化PM、エンジニアリングマネージャーを経験し、2025年3月から現職。
目次
「アジャイルの神様」がもつスキルの価値さえも下がった?AI時代の到来
「AIによって、私のスキルのうち90%の価値は、ゼロドルに成り下がってしまった」
そう発言したのは、アジャイル開発の世界的権威であり、「テスト駆動開発(TDD)」や「エクストリーム・プログラミング(XP)」の考案者として知られるKent Beck氏です。
アジャイルの神様とも呼べる人物でさえこう語ることに、多くのエンジニアは衝撃を受けたでしょう。
Kent Beck氏の言葉は、一見するとAIへの敗北宣言のように聞こえます。しかし、実際に彼に会ってみると、その印象は少し異なります。
2025年、私は来日したKent Beck氏、および『The DevOps Handbook』著者のGene Kim氏と会う機会を得ました。
深夜2時、2人は電話で「いま何してる?」「AIとコーディングしてる」「俺もだ!」と盛りあがったそうです。Kent BeckはAIの到来に絶望しているのではなく、むしろAIとの共存を楽しんでいるように思われました。
「走りながら考える」XPと「つくる前に考える」インタラクションデザインの対立
AIの登場によってエンジニアには従来とは違う能力が求められるようになりました。この変化の本質を理解するために、時計の針を2002年に戻しましょう。
2000年前後、ドット・コムバブルの崩壊によって「つくれば売れる」「計画通りにつくれば成功する」という前提は一気に瓦解しました。
不確実性の高い環境のなかで、従来型の重厚な開発プロセスは限界を露呈します。
そうした状況のなかで2001年にアジャイルソフトウェア開発宣言が発表され、さらに1年後、ある開発カンファレンスで歴史的な論争(2002年論争)が勃発しました。
対立したのはKent Beck氏と、『インタラクションデザインの本質』の著者であるAlan Cooper氏です。
Alan Cooper氏はVisual Basicの父であり、マーケティングや製品開発で使われる「ペルソナ」という概念の提唱者としても知られています。
このふたりの対立は、単なる手法の違いを超えた、ソフトウェア開発における根源的な思想の衝突でした。
Alan Cooper氏は、「コードを書きはじめた瞬間に、軌道修正は困難になる。コードというコンクリートを流し込む前に、徹底的に考え抜くべきだ。
XPのアプローチは犬小屋をつくるにはいいが、摩天楼を建てるのには向かない」と主張しました。
Kent Beck氏は「建築とソフトウェアは違う。ソフトウェアでは、正しくつくれば後から壁を動かすことができる。いい設計とはコーディングの前に考えるものではなく、コーディングのなかで学ぶものだ」と反論します。
さらに、Alan Cooper氏は「ゴール(あるべき姿)からの逆算」を、Kent Beck氏は「変化への適応と試行錯誤」を説きました。両者の議論は平行線をたどり、お互いを理解しあえないまま終わってしまったのです。
巨匠たちがすれ違った根本原因。「ユーザーのためにつくる」のは誰か?
なぜ、ふたりの巨匠はすれ違ってしまったのでしょうか。私は、その理由を「同じ言葉を使いながら、見ているレイヤーが異なっていたからだ」と分析します。
根本的な問いは、「ユーザーのことを考えてつくるのは誰なのか」という点にありました。
Alan Cooper氏は「デザイナーが創造者であり、ユーザーの代弁者としてふるまいを定義すべき」と考え、Kent Beck氏は「実装者であるエンジニアがつくりながらユーザーからのフィードバックを得るべき」と考えたのです。
しかし、ふたりには共通の敵がいました。それは、ドットコムバブル(ITバブル)崩壊前の旧態依然とした開発スタイル、すなわち「ユーザー不在のまま仕様を固め、変更を許さないウォーターフォール型の開発」です。
これが、ユーザー行動を限定してしまうと考えていました。
「徹底的なユーザーモデリング(ペルソナ)」か、「素早いリリースとフィードバック」か。ふたりはユーザー行動を「想像する」アプローチが異なっていただけなのです。
その後の20年、歴史はどちらを選んだのでしょうか。特に日本においては、Kent Beck的なアジャイル開発が主流となりました。
「まずは動くものをつくろう」「走りながら考えよう」という考え方が浸透し、Alan Cooper氏が提唱したような厳密なインタラクションデザインの視点は、やや置き去りにされてきた感があります。
そしていま、AI時代が到来したことによって、このバランスはさらに大きく崩れようとしています。
コード品質は上がるが、組織の安定性は下がるパラドックス
現代の生成AIは、Kent Beck氏のアプローチを極限まで加速させました。
「とりあえずコードを書かせてみる」「エラーが出たら直させる」という対話的なコード生成のスピードは、人間だけでは到達できない領域に達しています。
しかし、ここに落とし穴があります。GoogleのDevOps研究チームが発表した『DORAレポート』に、興味深いデータが示されています。
AI導入後、ドキュメントの品質やコードレビューの速度は向上しましたが、組織全体のスループットは低下し、ソフトウェアの安定性も下がっているというのです。
なぜ、個人の作業効率が上がっているのに、組織としての成果は下がるのでしょうか。それは、AIが加速させたのはKent Beck氏のいう「実践と対話を繰り返す」部分のスピードだけ。
ゴールへの到達スピードや、Alan Cooper氏のいう設計段階における「何をつくるべきか(What)」の検討プロセスは加速していないからです。
代表的な例としてあげられるのが、コードレビューの形骸化です。
「なぜこの設計にしたのか」「この仕様でユーザーはうれしいのか」という、本来人間が議論すべき本質的な問いが消え失せてしまわないか、と。
事業目的に照らして妥当かどうかを考える時間が減っているとしたら、それは生産性向上ではなく、単なる「思考停止」です。
AIによる高速な試行錯誤に一喜一憂していていいのでしょうか。これが私今回みなさんに投げかけたい疑問です。
かつて、Alan Cooper氏は、著書『コンピュータは、むずかしすぎて使えない!』のなかで、「エンジニアが自分たちのために設計すると、それはユーザーのためのソフトウェアではなくなる」と指摘しました。
これをAI時代に置き換えると、さらに恐ろしい事態が想定されます。
「AIに指示しやすいから」「AIがこう出力したから」という理由で開発を進めれば、それは「ユーザーのため」ではなく「AIのための開発」になってしまうのではないでしょうか。
日本のアジャイルに不足している、ユーザー中心設計(UCD)の視点
米国を中心とした海外のアジャイルコミュニティでは、近年「User Centered Design(UCD)」やUXデザインの文脈が再評価され、開発プロセスと深く統合されています。
いわばCooper文脈が強まっているといいますか。しかし、日本のアジャイル現場では、「つくり方(プロセス)」の議論が多く、「誰のために何を設計するか(デザイン)」の議論が不足していると思います。
ここでいう「設計」とは、システム内部のアーキテクチャのことではありません。
Alan Cooperが説いた「ユーザーがどうふるまうか」「どうすればユーザーの課題が解決するか」という、外部仕様としての設計です。
AIにコードを書かせる前に、この「ふるまいの定義」を人間が徹底的に行わなければ、どれだけはやくつくれても価値あるプロダクトにはなりません。
AI時代に残る人間の聖域は「好奇心」と「ユーザーへの想い」
では、AIが進化しつづけるなかで、人間に残される役割とは何でしょうか。それは「好奇心」です。
「この機能を使ったらユーザーはどう感じるだろう?」「もっとよい方法はないだろうか?」といったユーザーへの尽きない興味や、他者への想像力、情熱。これらはいまのところAIがもち得ない、人間だけの聖域です。
静的なコードの生成はAIが得意ですが、変化しつづけるユーザーの感情や状況を読み解き、そこに意味を見出すのは、私たち人間の仕事です。
(※本記事の内容および対象者の所属は、イベント開催当時のものです)